実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第146回

「電波技術協会設立④」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 かくして電波技術協会の創立総会は、昭和27年1月17日、関係者など約百名が出席し盛大に行われた。議事は所定の議案をすべて原案どおり可決するとともに、初代会長に就任した石坂氏は「この協会の創立の意義は大きい。今後のわが国の電波、放送の発展の上に、きわめて重大な使命を持つものであり、関係者一丸となって国民の期待に応えるため全力を尽くしたい」と力強いあいさつを行い、参会者一同もこれを誓い合った。

 電波技術協会が財団法人として電波監理委員会と通産省から正式に認可されたのは昭和27年3月31日のことだった。しかし実際の業務は1月の設立時から始められ、たとえば新設された「ラジオ受信機調査委員会」では、通常の真空菅にかわる「MT管」を利用したトランスレス方式のスーパーヘテロダイン受信機の開発に着手したほか、三月にはテレビ受信機の完全国産化をめざした「テレビジョン調査委員会」が発足し、時代の要請に応える活動が始まった。
 もう一つの同協会の大きな功績は、ラジオ受信機修理技術者の講習と、技術者検定試験を国に代わって実施したことである。この検定はそれまで通産省が行っていた一種の国家試験の代行という画期的なもので、特筆される事業であった。
 しかし、各方面の期待を担って発足した協会の運営=とくに経営は、決してバラ色ではなかった。日本人は、たしかに物造りというか団体などを設けるときには卓越した能力を発揮する。しかし、いざその団体が設立されて一人歩きを始めると、急に周囲の熱が冷めてくるという風潮があるほか、その団体などの業務が華やかに展開されると、なかには〝やっかみ〟というか、ブレーキをかけようとする動きが必ずといってよいほど起こってくるものである。
 こんなこともあった。協会がはじめた技術者の養成業務について、多くの「各種学校」や私立の養成機関からクレームがつけられ、これが国会でも採り上げられるにいたった。技術者検定を実施する機関が「技術者養成所」まで併営することは不合理である、というのがその理由であった。
 考えてもみなかった障害に遭遇するというのは世のならいである。華やかな脚光を浴び各方面から大きな期待を持たれて発足したものの、協会の経済的危機は何度となく訪れたようだった。
 たとえば昭和40年には石坂会長の退任により二代目会長に米沢与三七氏が、また41年には、協会生みの親ともいうべき小松繁氏(元NHK副会長)が三代目会長に就任したが、訪問して耳にする話は、きまって財政問題が多かった。ラジオ、テレビの受信技術者検定試験についても“志望者が一巡”すると受験者の数は目にみえて減少していったからである。また、メーカーなども最初は「協会の力」を頼りにしていたが、次第に自社に地力がついてくると〝独自〟の開発研究に重点を置く方向にむかうなども原因だった。

 しかし、電波技術協会がこんにちにまで残した功績は大きい。ラジオ、テレビ受信機の性能向上から始まり、高性能テープレコーダーの研究開発、そしてテレビにおいてはUHF帯の実用化と受信アンテナの開発、AM・FMステレオ放送の実用化の促進、また雑音および各種受信障害対策に、陸上移動無線用周波数の有効利用に必要な技術条件の調査研究、高速道路の路肩情報通信の開発などなど、国の行政指針の設定、あるいは市民生活の福祉向上に尽くした役割は枚挙にいとまがない。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

是非、感想をお寄せください

本企画をご覧いただいた皆様からの
感想をお待ちしております!
下記メールアドレスまでお送りください。