実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第147回

「カラーテレビの登場①」

第4部 テレビ普及に向けた動き
昭和三十三年秋の頃、麻布狸穴(まみあな)の郵政省庁舎の審理官室を訪ねると、公平信次(こうへい・のぶつぐ)審理官と同室の中西光二(審理官)から、異口同音に次のような質問を受けた。
 「いまメーカーのカラー受像機の生産体制は、どうなっていますかね」
 当時、放送関係者はもちろん、国民の間でもカラーテレビをめぐる話題でふくらんでいたからであった。しかし、そのころは白黒テレビが始まってまだ五年目であって、放送局の数もNHK、民放を含めて約二十局程度だった。したがって全国的にみると大都市周辺以外はまだテレビの見えない地域が多く、それらを解消するため、時の郵政大臣田中角栄が、テレビの全国一斉大量免許(三十二年十月二十二日、NHK七局、民放テレビ三十四社三十六局、計四十三局に予備免許)を行ったものの、それもまだ一年足らずのときで、開局した都市も少なかった。したがって、日本のテレビ(白黒テレビ)の全国普及はこれからという時代に、はやくも放送事業者や機器製造業者たちは究極のテレビである天然色(カラーテレビ)の実現に向けて走り出していた。しかも彼らは、早期実現をめざして政官界に強力なはたらきかけを展開していた。これは企業として当然のことであり、テレビジョンの行きつくところがカラー化であることは誰一人異存のないところであった。
 しかしこのことは日本だけではなかった。欧米諸国も競って実験研究に取り組んでおり、とくにアメリカやキューバは本放送開始目前にあった。ただ当時の各国(とくに米、英、仏、独)の現状は、それぞれ独自の方式を検討中であって、世界万民が共有すべき貴重な文化財の方式が異質であることは、不便、不経済きわまるところから、標準方式の世界統一が強く要請されていた。
 そこでITU(国際電気通信連合)も等閑視できず、CCIR(国際無線通信諮間委員会)に諮問してカラーテレビジョンの国際的標準方式を急ぎ討議検討することになった。
 そしてその中間会議(研究委員会WG11)が三十三年五月二十八日から六月十日までモスクワで開かれた。この会議には日本から丹羽保次郎(東京電機大学学長、カラーテレビ調査会会長)、藤木栄(郵政省放送技術課長)を代表に、また代表者としてNHKから技術研究所テレビ研究部長の野村達治、同副部長安田一次の四氏が派遣され出席した。しかし、アメリカはNTSC方式を、フランスはセカム、西独はパル方式を主張するなどして結論を出すに至らず、その後開かれたCCIR総会においても関係各国の意見は一致をみなかった。
 そこでわが国としては国際規格の統一は不可能とみて、日本独自の方式をつくろうということになり、郵政省は三十三年十二月二十五日電波監理審議会に「送信の標準方式及び受像機の国内量産の見通し」について諮問。その「聴聞」を公平(主任)、中西両審理官が担当することになったのである。
 両氏から相談を受けたのはこのときである。つまり両審理官としては、聴聞を前にメーカーのカラー受像機生産の実状を把握しておきたいというのが真意であった。しかも両氏から、「ぜひその現場を見たい」という要望であった。考えた末、私は「東京周辺のどこかで」という要望もあったところから、すぐに「東芝」の名が頭に浮かんだ。
     (第147回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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