実録・戦後放送史 第148回
「カラーテレビの登場②」
第4部 テレビ普及に向けた動き
カラーテレビの規格統一に向けた電波監理審議会の聴聞を前にメーカーのカラー受像機生産の実状を把握しておきたいという意向を受け、やがて東芝の特別な厚意により両審理官を川崎の小向工場に案内することになった。実をいえば、私自身もこれを機会にカラーテレビの生産現場を見学したい欲望もあった。
そのころの東芝小向工場は、当時の国内電機メーカーとしては一頭地を抜く設備が整っており、テレビのほかにも多くの無線機器を造っていた。なかでも時代の脚光を浴びているカラーテレビ工場は、あらゆる面でよく整備され、ハンダ付けから組立、検査にいたるまで一貫作業、すべてベルトコンベアで結ばれていて、それを囲むように若い女子工員が整然と立ち働いていた。
自ら案内役を買って出られた宮地輝威工場長と加藤清之助課長がカラーテレビの出来るまでのコースをこまごまと説明する。ひと通り説明の終わったところで公平審理官は「一台作るのに何時間位、月産は何台?」と質間する、これは企業機密だ。宮地さんは「実は部外秘なんですが」とひと呼吸したあと、そこは関係官庁のことだ、小声で「約××台です」と私に目くばせするような態度で答えるのだった。
このようなことがあって間もなく、わが国のカラーテレビ問題の幕開けを告げる電波監理審議会の「聴聞」が昭和33年12月25日を皮切りに、翌年1月13日、2月9日の3回にわたって開催された。そしてこの聴聞の見せ場は、かつて白黒テレビの標準方式を決めたメガ論争以上に迫力のあるものだった。
NHKは溝上銈副会長を陣頭に田辺義敏、野村達治、佐原貞治氏ら技術陣の総力をあげての布陣。民放関係からはNTVの清水与七郎社長、ラジオ東京を代表して遠藤幸吉常務、CBC(中部日本放送)からは小島源作常務その他、放送界を代表する顔ぶれが揃った。そして利害関係者の論議の的となったのは「送信の標準方式」をどうするかよりも、実施の時期をめぐる論争のほうが主であった。
NHK(溝上副会長)が「標準方式についてはNTSC方式を是とするが、将来の普及を考慮して、とくに受信機の低廉化を図るため、この方面の研究を進める必要がある」と慎重な発言をしたのに対し、NTV清水社長は「すでにアメリカで実施しているのだから躊躇(ちゅうちょ)することなく早急に実施すべきである」と主張。「急ぐことはない」とするKRTの遠藤氏との間で激しいやりとりがあった(この聴聞の模様は後ほど詳しく紹介していく考えであるが、当時の一般的空気としては、白黒テレビの普及途上にあるわが国としては「時期尚早」の声が強かった)。
さて、本来ならばここでカラーテレビに関する「聴聞」の場面を再生すべきところであるが、「カラーテレビ小史」というからには、その歴史的背景とか、よってきたる経緯をひと通り解説しておく必要があろう。
(一)そもそもわが国でカラーテレビがクローズアップされたのは、昭和26年から7年にかけての「白黒式テレビ標準方式」の決定をめぐるときのことである。そのころ話題を集めたメガ論争が行われた際、NHKや無線工業会は「やがて訪れるカラー時代を考えると、バンド幅(周波数帯域幅)を7メガとしておくことが画質を良くしまた受像機の低廉化にもつながる」と強く主張してゆずらなかった場面が想起される。
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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