実録・戦後放送史 第149回
「カラーテレビの登場③」
第4部 テレビ普及に向けた動き
その当時(昭和25年)アメリカでは「三色板回転式」とも呼ばれたCBS方式が、FCC(米連邦通信委員会)によって標準方式と認定され、米3大テレビネットの一つであるCBSネットワークが同年6月から本放送を開始したばかりであった。日本でもすぐさまこれに習った研究が進められた。ところが、ここで異変が起こった。
かの朝鮮戦争の勃発である。そのころアメリカは国連軍の先頭に立って北朝鮮軍をはじめ有力な中共軍、ソ連軍を相手に科学戦を交えた決戦に突入していたのであるが、国防省は「総力戦のさ中にカラーテレビのような(ぜいたく品)を作るために、電子技術を含む機器の生産を行うことは時代錯誤である」として、その自粛を業界に要望した。このためようやく普及しはじめたCBS方式は足踏みを余儀なくされたのだった。
そうしたときに新しい事態が起きた。戦争というものは思いもかけぬ新技術を産み出すものである。26年(1951年)アメリカの科学陣が新しい光学兵器の開発研究中に、RGB(赤、緑、青)の三原色をうまく組み合わせると天然色に近い多彩な色の出せることを発見した。こうした新発見をもとにアメリカの電子技術者ローレンス博士が3色テレビ管(クロマトロン)の開発に成功、公開したことが、現在のNTSC方式の実施につながるのであった。
つまりローレンス博士の3色テレビ管の発明により、アメリカではNTSC(National・Television System Comittee、すなわち全国テレビジョン・システム委員会)が組織され、同委員会は約2年間の歳月をかけて白黒とカラー双方に使える全電子式両立方式(コンパチブル・全エレクトロニック・システム)を完成させたのであった。そこでFCCは1953年12月17日、これをアメリカの正式カラーテレビ方式として承認、この方式の名称を委員会の略称をとってNTSC方式と名付けた。
アメリカが新しいカラーテレビ方式を決定したニュースは、わが国にも大きな衝撃をあたえた。なかでもNHKは早速NTSC方式の研究を進め、1956年3月22日、わが国初のカラーテレビの実験公開を行った。
NHK放送技術研究所のNTSC方式によるカラーテレビの研究は29年から始められたが、まず手始めとして30年5月、この方式によるカラーテレビ受像機の試作品を完成、さらにNHKは翌31年12月20日、わが国で初めてUHF波によるカラーテレビ(中継)実験局を同研究所内に設置、32年12月27日同実験局の免許を得たので28日から本格的実験放送を開始している。
一方、NTVも32年4月18日、実験放送の免許を申請した(免許取得はNHKと同日の32年12月27日)。このときのNTVの実験は、アメリカRCA社製の送信機を用い、白黒テレビ用に割当てられているVHF波チャンネル4を利用し、その一部をこれに当てた。
このような動きのなかで郵政省は、カラーテレビよりも、まず白黒テレビの全国的普及の重要性を考慮して「テレビジョン放送用周波数の割当計画基本方針」の一部修正を32年5月21日に行っている。
この基本方針の修正に当たって郵政省は、とくに「現行のテレビ用電波は、カラーテレビを対象としない」と説明している。そしてこの修正で特筆すべきことは、それまで6チャンネルだけであったテレビのチャンネル数を一挙に11チャンネルにまで拡大した。かくして郵政省はこの基本方針の決定にもとづきチャンネルプラン(周波数割当計画表)の大幅修正を行い、全国50地区に107のテレビ局が設置できることとするとともに、番組の低俗化を憂うる世論を尊重して、新たに「教育番組専門局」を設置することとし、NHK教育29局、また民放テレビ局にも教育教養番組の充実を図るため「準教育放送局」を設置する等の方針を決め、電波監理審議会に諮問、これが答申を経て9月17日にこれを制度化した。
郵政省が、これらの方針を包括して32年10月22日、全国百数10社におよぶ(民放テレビ)申請者の中から、36局(34社)及びNHK7局計43局に大量免許を行ったことは、先にも述べたとおりである(前項までの紹介はカラーテレビ問題とは直接関係ないが、そのころの放送行政関係の中で最も重要な事項であるので重複を承知で、あえて紹介した次第である)
阿川 秀雄

阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
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