実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第150回

「カラーテレビの登場④」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 郵政省は、昭和32年5月21日、まず白黒テレビの全国的普及の重要性を考慮して「テレビジョン放送用周波数の割当計画基本方針」の一部修正を行ったが、カラー問題を等閑視することはできなかった。そこで32年6月になって通産省と協議のすえ、関係省庁、学界、受信機製造メーカー、放送関係者などを網羅した「カラーテレビ調査会(丹羽保次郎会長)」を設け、
①機器の国産化対策とその実施計画
②わが国におけるカラーテレビの標準方式
③関連する特許の調査とその対策
を重点に調査を進めることにした。

 この調査会は、アメリカのNTSC、フランスのSECAM、西独のPAL三方式を詳細に検討した結果、34年12月「NTSCは技術的に欠陥が少ない」との中間報告を行い、ここでわが国カラーテレビの針路がほぼ確定的となった。そして正式に標準方式が決したのは35年6月18日のことである。

 さて、この項を進めるに当たって私は、当時の動きを刻明に記した膨大なメモと記録を読み返してみた。すくなからず冗長のきらいはあるが、わが国カラーテレビをめぐって展開された名方面のありし日の模様を知っていただくための資料とも考えられるので暫くの間ご静読を項きたい。
 34年9月15日の日記に「午後2時から、東京電機大学の学長室に丹羽保次郎学長を訪問す」とある。丹羽先生という人は立派な教育者というか、言語も挙措も実に整然とされ、野人である私などのとても及ぶところのないジェントルマンであった。
 カラーテレビ調査会が中間報告を済ませたばかりの時であり、その報告書も読んでいったので、それについてクドクドと質問するのも憚(はばか)られるので、率直に先生の意見を伺うことにした。丹羽先生は、欧米諸国のカラーテレビ研究開発の実状を具体的に解説されたあと、「それでは、日本としては?」という私の質問に対して、「それは、私共のような人間が決めることではなく、行政(政府)が決定されることであって、私共は行政判断のための資料を提供したに過ぎません」と、実に控え目に言われた。
 それからしばらくして私は時の郵政大臣植竹春彦さんと対談した。その植竹さんがITUの全権会議に出席される5日前のことである。
私は①その全権会議への抱負②欧州各国のカラーテレビ事情視察の目的などを聞くため面会を求めたのだった。34年9月24日のことである。

 この年開かれたITU全権委員会議の主目的は「管理理事国の選挙に当選すること」であった。植竹さんは「世界の電気通信発展のためには、とくにアジア諸国のためにも、日本の果たす役割は大きい」として、ぜひともこの管理理事国に当選したいと並々ならぬ決意を示した。もう一つ、この会見で私の聞きたかったのは、大臣みずからが欧州各国のカラーテレビの実態調査をすることの真意だった。
 「郵政省としてもこの問題は避けて通れない。アメリカの資料はかなりあるが、欧州諸国の実状には不明の点もあり、また各国政府当局者の考え方も聞き、アメリカとの比較もしてみたい」と率直だった。やがて植竹さんは10月23日に帰国された。その帰国談を総合的に聞いてみると「欧州各国は、まだ研究開発の段階であり、かりに標準方式を決めたとしても、事業として実施するのは、そう急ぐ必要はない、と言っていた」と語っていた。つまり欧州諸国はアメリカと一線を画している実状をその時知った。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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