実録・戦後放送史 第151回
「カラーテレビの登場⑤」
第4部 テレビ普及に向けた動き
昭和三十四年のカラーテレビに関するトピックスとしては、九月十四日NHKが内幸町の放送会館新館内に工事を進めていたカラースタジオが完成。それまで世田谷区砧の技術研究所で行っていた実験を、ここに移設している。実験に使われたカラー・テレビカメラはRCA社製二台と技研製一台の計三台で、これによりNHKのカラー実験放送は十月五日からは毎日午後二時三十分から三十分間定時に実施されるようになった。
もう一つ国際的な出来事としてはCCIR(国際無線通信諮問委員会)の第十一分科会が十月二十七日から三十日までの四日間ジュネーブで開かれ、各国が計画を持ち寄り討議を行った。わが国からはこの中間会議に西崎太郎(郵政省電波研究所長)森本重武(日本教育テレビ技師長)とNHKの沢村吉克の三氏が出席している。
同委員会においてCCIR事務当局は、UHF帯七メガバンドによる方式を勧告したが、アメリカはあえて積極的な発言を行わず、逆にヨーロッパ各国は八メガヘルツ帯幅を主張した。すなわちイギリス、フランス案はUHF帯による八メガ帯の走査線六二五本というもので、CCIR案(七メガ帯)の左右に〇・五メガずつ加える方式を、一方ソ連は八メガ帯であるが片側に一メガを追加する案を主張してゆずらなかった。
同会議に出席した森本重武氏の帰国談によると「ヨーロッパ各国は初めからアメリカ方式に同調する考えはなく、むしろ欧州各国共通のシステムとしたい意向を持っており、そのためには方式決定を急ぐ必要はないという意向だった」という。
こうした経緯によりカラーテレビの国際的標準方式は欧州各国でも一致をみるに至らず、英、仏、独それぞれ独立した方式を決め今日にいたっていることはご案内のとおりである。
一方、国内の動きとしては、同年九月十日カラーテレビ調査会が「大衆がカラーテレビについて、どのような関心を持っているか」についての意向調査を行っている。そのころすでにNHK、NTV、KRTは盛り場等でカラーテレビの街頭公開を始めており、同調査会はパンフレットによるアンケートを実施し、①公開されている受像機の画質②興味及び関心の度合い③購入するとしたら、その価格について、など約十項目の意見を集めた。
さらに同調査会は、国民の意向、メーカーの受信機製造の現況と将来構想などをまとめて、三十三年十二月八日郵政、通産両省に「中間報告書」を提出したが、その報告にあたって丹羽保次郎会長は「もし早期に実施するとしたらNTSC方式がベターだ」との意見を述べている。
かくて昭和三十四年も押し詰まった十二月二十五日、植竹郵相はこの年最後の記者会見において「郵政省としてはアメリカの方式(NTSC)を採用する」と発言、日本のカラー方式をめぐる懸案は、これで終止符を打ったかにみえた。
三十四年十二月二十五日の記者会見における植竹郵政大臣の発言は、はたせるかな関係方面に大きな衝撃を与え波乱を巻き起こした。
しかも郵相は、早急に標準方式を制定し、かつ免許を急ぐべしと事務当局にその準備を促している。カラー調査会が「あえてこれを早急に実施しようとするならば、今のところNTSC方式しかあるまい」と報告したことを、郵相は「それしかない」と判断したものとみられるが、NHKをはじめ放送界(NTVを除く)機器メーカー、通産省等は「今焦って方式を決めることはない」と反発した。とくに経済界等は「なお白黒の普及段階にあり、現下の経済情況からして実施には時期尚早である」という意見が強かった。(第151回に続く)
阿川 秀雄
阿川 秀雄
1917年(大正6年)~2005年(平成17年)
昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。
本企画をご覧いただいた皆様からの
感想をお待ちしております!
下記メールアドレスまでお送りください。