実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第154回

「カラーテレビの登場⑨」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 昭和35年3月4日に開かれた「カラーテレビに関する報道関係懇談会」では、受像機以外のことについては電子機械工業会技術委員長の高柳健次郎氏がうんちくを傾けて熱心にレクチャーされた。
 「ついでながら」と、アメリカにおけるNTSCカラーテレビ受像機の生産、販売および普及実績等を示すデータが配られた。それによると、アメリカでは1953年12月17日からNTSC方式によるカラーの本放送が実施された。以来、1958年まで5年間の普及状況は以下のとおりである、とタイプされてあった。
 ▽54年度=生産1万5千台、販売1万台、普及1万台
 ▽55年度=生産6万5千台、販売5万5千台、普及6万5千台
 ▽56年度=生産11万台、販売8万5千台、普及15万台
 ▽57年度=生産16万台、販売12万5千台、普及27万5千台
 ▽58年度=生産14万5千台、販売16万台、普及43万5千台。普及の合計は5年間で93万5千台とあった。

 わが国のカラーテレビの方式決定をめぐっての各界の動向や意見を、年代順にたどってきたところであるが、35年代では即時本放送実施を希望するNTVと、一部のメーカーによる急進派に対し、大方の声は「時期尚早」論であった。
 それは常識論である。例えば本家本元のアメリカでさえ、本放送を始めて5年になるのにカラー受像機の普及は100万台に満たなかったこと、ましてや日本の場合、標準方式の未定という要因があったにせよ、当時の受像機価格が17型で40万円以上という高額商品では、大衆には高嶺の花に等しかったからである。加えてソフトも不十分だった。
 このような背景があったにもかかわらず、植竹郵相は、なぜ突如として34年12月「方式はNTSCが適当である」と記者会見で公言したのであろうか。しかも郵相はこのあとすぐ事務当局に対し、免許許可の基盤となる標準方式をふくむ三省令の改正作業を命じている。
 そうした折、今度は参議院本会議でもこの問題が蒸し返された。35年3月11日のことである。
 この日質疑を行ったのは山田節男氏(民社=のちの広島市長)だった。山田氏の質問への答弁には植竹郵相と池田通産相があたったが、両相はカラーテレビ放送の許可について①国内の気運が(カラーの)実施の時期に来ていると考える②国産受信機の生産も今年中に3千台以上の見通しがある③(実施については)政府部内でも検討した結果であると答弁し、この日をもって国会における討論は(表面的には)終止符を打った。
 だが、山田氏は「むしろこの問題は国民の期待というよりも多分に政治的圧力が感じられるとして「昨年(34年)4月、寺尾郵相がカラー実験局を許可する際にも現行放送法上疑点があったが、それに関連して当時の電波監理局長(浜田成徳氏)を退官させるため「圧力」を加えたという噂がある。しかも浜田氏の退官をめぐって岸信介首相みずからが乗り出したともいわれるが、事実か」と爆弾的質問を行った。さらに山田氏は「植竹郵相は、最初はカラーテレビ慎重論であったのに、最近はかなり急に早期実施論にと心境の変化をみせているのはなぜか、その背後には何らかの政治的圧力があったのでは」と鋭い質問を浴びせた。しかし山田氏という人は、自分の意見を言いたいだけ言うと、あとは深く拘泥する人ではなかったから、言いっ放しというか、深く追求されなかった。また植竹郵相も山田氏の性格を知り尽くしているかの如く、NTSC方式に踏み切った経緯を簡単に説明しただけで、この日の本会議はなにごともなかったように終わっている。

 この現場を取材していた私も、はじめはどうなるものかと思わず膝を乗り出したものの、あまりの呆気なさに、むしろ手持ち無沙汰さえ感じられた一幕であった。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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