実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第155回

「カラーテレビの登場⑩」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 参議院本会議での山田節男議員と植竹郵政大臣との間で交わされた「カラーテレビをめぐる政治的圧力の有無」についてのやり取りを聞いていて、私の胸に生々しく蘇ってきたのは、その前年(昭和三十四年)初夏のことであった。当時電波監理局長だった浜田成徳さんとお会いしたときの思い出である。
 この日の朝、いつものように狸穴庁舎三階の局長室に浜田さんをたずねると「君には大変お世話になったが、こんど辞めることになってネ」と突然おっしゃる。不意のことで「え?」という以外ことばが出ないでいると、「実は、昨晩岸(元総理)さんに口説かれてネ」浜田さんは苦笑しながら、こともなげにいわれた上で、続けて次のようにいわれた。
 「ワシが居るとカラーテレビ促進論者が困るらしいんだネ」と、もうすっかり諦観しているようだった。
 「なぜですか」
 「ワシは、現状からみてカラーテレビは今の日本では時期尚早だと考えているが、うるさい連中が多くてね。役所の中にも急進論者が居てね。ワシも早いもので四年になるから、もう潮時だよ」浜田さんは、それ以上は語ろうとされなかった。
 そういえば、浜田さんが電波監理局長に就任されたのは三十年七月九日のことであるが、その前々日の夜、私宅に電話があり、
 「いま岸総理と松田郵政相に口説かれたところだ。ぜひ電監局長になってくれといわれるから東北大講師と兼務ならという条件で承知したところだ。九時にはキミと会えると思う」
 こんな重要な話を何の屈託もなく話されたことも一つの思い出であるが、辞任のときも同じであった。浜田さんの正式退任は三十四年六月六日で、同日その後任に電波研究所長から甘利省吾氏が任命された。
 思えば甘利さんという人は、日本のテレビジョン推進者の一人であって、白黒テレビの標準方式を決めるとき「六メガ」論を展開し、以後も「六メガを採用したからこそこれだけテレビが普及したのだ」と主張してゆずらなかった。
 そしてカラーテレビの標準方式決定に当たっても「NTSC方式こそ、普及の近道である」と植竹郵相を説いている。表面は研究者らしく温和にみえる半面、これと信ずれば、自説を貫き通す剛直の人であった。だから植竹郵相も甘利さんには一目置いていたというところがみえる。このあたりを山田議員は衝いたものと思われる。
 とくに電監局長が急進論というかNTSC推進論者であればことを進めるのは早い。間もなくカラーテレビ免許のゴングが打ち鳴らされることになるのであった。
 さて、わが国のカラーテレビ放送実施に関する諸規則①テレビジョン放送に関する送信の標準方式②無線局設備規則③無線局免許手続規則の各一部改正案が、郵政大臣から電波監理審議会(松方三郎会長)双に諮問されたのは、三十五年三月十八日のことであった。
 この日は、カラー問題ばかりでなく放送局の免許に関する重要な諮問が行われ、いずれも即日答申(免許処分)がなされた。その一部を紹介すると▽標準放送(AMラジオ)用周波数の一部変更=NHK岡山ほか七局。民間放送ではCBC(名古屋)など四局の周波数および空中線電力の指定変更▽東海大学のFM放送実験局に予備免許▽NHKの教育テレビ局(仙台、福島、盛岡)等三局、大津実験局(テレビサテ局)、長崎(ラジオ局)の増力許可などであった。(第156回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

是非、感想をお寄せください

本企画をご覧いただいた皆様からの
感想をお待ちしております!
下記メールアドレスまでお送りください。