実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第164回

「カラーテレビの登場⑲」

第4部 テレビ普及に向けた動き

 ここまで、昭和35年4月13日から開催された、わが国カラーテレビジョンの「送信の標準方式」をめぐる省令案の聴聞の模様を記してきたが、4日間の審議を経てもなお終結をみるに至らなかった。その原因は標準方式案そのものにも賛否両論あったが、むしろ「方式よりも本放送実施の時期」をめぐって利害関係者の中から時期尚早論が強かったことである。
思うに時期尚早論者は、あえて本放送の実施を遅らせようとの意図から、意見や質問の角度を変えたりして執勘に時間をかせいでいたような姿勢もみられ、加えて放送事業者相互の反目も露骨であった。

しかし4日間の聴聞では、なんとか標準方式案と設備規則改正二案の審議を終え、聴聞は次の段階に移るのだった。
ちなみに、この聴聞への参加者(出席者)は延べ53団体400名にのぼった。この数字だけをみても、当時の人達(利害関係者)が(賛否は別として)いかにカラーテレビの実施について強い関心を示したかが窺える。

このような状況だったため、当初予定していた「無線局免許手続規則」一部改正案についての聴聞は4月25、6日に延期された。この規則改正の趣旨は、いうまでもなくカラーテレビ放送局を免許(許可)する際の条件等を定めるためのものであった。しかし、これらの規則については電電公社が反対。またこの「放送中継」の定義が不明確とする民放連や電子機械工業会が郵政省を追及する。これに対して郵政省(藤木放送技術課長)は「最小限の要求として、中継を行う放送までを含めたほうがよいということである。電波監理は電波の割当てだけでなく質そのものを監理するのであり、テレビの場合STリンクやマイクロまで全部含めて考えている。とにかくカラー信号を送るうえに最小限の要求をしているわけである」と答弁したが、電電公社は納得せず、逐条審議に入ってからも第37条の2項の2号の「信号ならびに成分」に対して、また3号の色信号の値についての「指針として」を、前号に入れないで、3号に限り入れることは検査の場合に支障を来たすとする主張が芝電気、東芝および電電公社等から強く出た。

結局この問題は、郵政としても①測定方法については検討中である②検査についてももう少し検討してみる必要がある③有線については規制出来ないが、電電公社と放送局の自主的な話し合いを待つ、という答弁で終わった。

この「無線設備規則」および「無線局免許手続規則」の改正案を巡るこの聴聞は、さきの白黒テレビ標準方式を決める際の聴聞(昭和28年4月)の時よりも、さらに厳しいものがあったように思える。前者は確かに日本として初のテレビ論争であり、最も重要といわれた周波数帯域幅を6メガか7メガのいずれにするかの論争が主体であったのに比べ、後者(カラー)の場合は、そのことが白黒テレビの普及を阻害するという意見に加え、放送事業者(とくに民放)にとっては経営上の不安が先立ったからであった。もちろんテレビ電波(番組)の伝送(中継)を一手にあずかる電電公社の立場も微妙であった。当時電電公社としては第二次電信電話拡充計画がスタートしたばかりであったことに加え、白黒テレビの全国中継網を完成するため、マイクロウェーブ・ループ回線(白黒)の工事を積極的に進めている最中だった。そこへ急いでカラー用マイクロ回線を引けといわれても途方にくれるものがあったからだ。

このような波乱にとんだ聴聞が終わり、中西、公平両審理官から「意見書」が提出されたのは35年5月27日のことであった。果たせるかな、同日開かれた電波監理審議会では、両審理官の「意見」を聴くことに終始し、その後三回にわたる審議会を経て、ようやく「原案の大幅修正」による答申が6月3日行われたのであった。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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