実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第166回

「カラーテレビの登場㉑」

第4部 テレビ普及に向けた動き

郵政省は、昭和32年12月28日、NHKとNTV両局にVHF帯によるカラー実験局を免許したが、実験局を運用中のNTVは「実験といえども人的、物的負担が極めて大きいので、広告コマーシャルの挿入を(実験として)認めてほしい」と郵政省に要望書(陳情書)を提出して物議をよんだ。

 それまで郵政省はカラーテレビについて、きわめて慎重な態度で臨んでいた。それは当時、時期尚早論が多かったことに加え、技術基準(方式等)が未決定であり、しかも技術的実験を行う無線局に広告の挿入を許すようなことは前代未聞であるとしていたのであるが、時の郵政大臣寺尾豊氏は、あえてこの前例を破って34年4月4日「カラーテレビ放送の実験の促進の方策」と題する諮問を電波監理審議会に行った。これに対して同日の審議会は、かなりの論議を重ねたすえ、諮問どおりの答申をするに及んで、郵政省は「特例」としてこれを許可したのだった。

 世論は、これを寺尾大臣の置き土産と評したのであるが、これに勢いを得たNTVは、早速コマーシャル(宣伝広告)を入れた放送を始めるとともに、輸入品をふくむ多数のカラー受像機を購入し、白黒テレビのときと同様「街頭テレビ」による普及宣伝に狂奔していったのであった。言ってみれば、日本のカラーテレビは、もうこの時から実施されたも同様と言ってよかろう。
 ちなみに同日の電波監理審議会では、答申にあたって次のように述べ、当局の意見に同意している。「カラーテレビの実験放送については(この種の放送が)結局は一般視聴者を対象とするものである事実にかんがみ、その実験の促進についても、単なる研究室内の実験とは異なるものとして、適切な配慮を加えることが望ましいと考える」
 つまり普及のための実験ならば広告も「実験の範ちゅう」ではないか、という趣旨のものであった。電波監理審議会の答申を得た郵政省は、この日(34年4月4日)新たな免許方針について次のような方針を発表した。

 「カラーテレビジョン放送の実験については、答申『この種放送が結局一般視聴者を対象としたものである事実にかんがみ、その実験の促進についても、単なる研究室内の実験とは異なるものとして適切な配慮を加えることが望ましいと考える』と述べられていることに従い、次の方法により実験の促進をはかることとする」とし、さらに「現在行われている実験放送は、送受信とも専門技術家によって行われているものであるが、受信の面において『放送としての価値』について、正しい大衆批判を得ることも実験の一環として認められるので、そのためには一般大衆が自らの手によって直接受像機の操作を行った場合等の受信評価調査を科学的、組織的に行う必要がある。(中略)そのためには商業告知その他の広告放送が行われることは、当該実験の運用が白黒方式による実用放送局と同一の周波数により、白黒とカラーとの両立方式として実施される場合はさしつかえないものとする」

 このように述べながら郵政省は、次の一句を「しかしながら」と付加している。

 「右の措置は、あくまでわが国の標準方式の決定に至るまでの研究のためのものであり、その正式決定はいまだ将来の問題であるので、アメリカ方式による受像機を一般大衆が購入することは、将来それらの人々に重大な損失を与える恐れのあることを周知し、大衆の不測の損害を予防するようにすること」と念を押している。

 こうした「方針」を最後に寺尾大臣は同年6月の内閣改造により退陣し、その後に植竹春彦氏が郵相のポストに座った。加えて電波監理局長には(急進論者)甘利省吾氏が就任した。とくに甘利局長は、かつて白黒テレビのとき六メガ論者であったし、正力テレビ(NTV)の免許にあたっての立役者ともいわれた人であったから、カラーテレビ本放送への準備は着々と進むのだった。

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

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