実録・戦後放送史- 電波取材に生涯を捧げた 記者・阿川秀雄の記録 -


実録・戦後放送史 第154回

「カラーテレビの登場⑧」

第4部 テレビ普及に向けた動き

昭和三十五年(一九六〇年)三月四日、「カラーテレビに関する報道関係懇談会」が東京・丸の内工業クラブで開かれた。この日の会場には一般新聞社、業界専門紙誌など、およそ五十名の記者が顔を揃え、その関心の深さを物語るものがあった。
まず業界の現状説明に立った山口委員長は、カラーテレビ受像機の製造販売に関する考え方および送受信技術の現状等について、業界の一致した見解として次のように説明した。
◆受像機関係 
政府の方針が(標準方式を)NTSC方式を土台に考えていることから、われわれ業界もこれに即応体制をとり、(各社によって実情は異なるが)それぞれ生産体制を整えつつある。ただカラー受像機の問題として①セット自体の調整を容易にする必要があること②今のところ、国内のブラウン管の生産が一部限られたメーカーだけであるので、これの需給には相当量の輸入を行う必要がある。そのため現在、通産省に輸入の許可を申請中である③したがって今言えることは、すぐに受像機の低廉化は考えられない。
◆受像機の価格
十四社の一応の結論として言えることは、社会常識から考えて①21型で五十万~六十万円②また国産の17型で四十五万円位が最低というのが現状である。
これはコスト計算から出した数字ではなく、あくまでも社会通念から出したものである。たとえば国産17インチと輸入21インチブラウン管の価格がほぼ同一であり、当分この状勢は続くものと思われる。
「失礼ながら、こうした現状を正しく伝えていただきたい」こう言って山口さんは我々に理解を求めるのであった。そのころNHKはカラーテレビの実験局の許可を得て、各地で実験公開を行うなど国民大衆に精力的な啓蒙運動を展開した。なかでも東京・日本橋「三越デパート」の屋上で行われたデモンストレーションには連日のように長蛇の列が出来たのは有名である。
一般受像機だけでなく、当時としてはめずらしい大型スクリーンに色彩豊かな映像を映して観衆を魅きつけるなど、カラーへの関心を盛り上げる大きな役割を果たしたことは記憶に新しい。
なおこの日の懇談会には「市場安定協議会」側から次の各氏が出席した。なつかしい顔ぶれであり、その一部を紹介しておきたい。前記山口勝寿第六委員長のほか、副委員長の雑賀早川電機(のちのシャープ)東京支店長、日立製作所の村上第三家電部長、松下電器磯村東京支店次長、また電子機械工業会技術委員長の高柳健次郎氏、東芝商事大槻テレビ課長、東芝小向工場技術部長代理の得能氏、全ラ連中村常任理事、東ラ連の井手事務局長ら約二十名だった。
これらの人たちは記者団からの質問に答え、①安価な受像機が出来ない理由としては三色B管の不足がある。「巷間では七万円、あるいは二万数千円でカラーテレビが買える」といったようなことが流布されているが、それはNTSC以外のもの(CBS方式)であって、これらはフリッカー(画面のチラつき)が多く、これが解決されなければ実用化にはほど遠いと考える。NTSC方式受像機が高価な理由はこの方式による技術的諸問題(白黒との両立を含む等)の宿命であって、アメリカでも現在のところ21型で四九五ドル(当時の邦価換算十七万八千二百円)が最終値といわれている。したがって量産によっても当分は急速な値下がりは期待できそうもない。
②放送用機器には、あまり問題はない。ということは、カラーテレビの送信技術はNTSC方式でも周波数が同じであること。送り側(放送局側)でカラー電波を出す場合、現在の白黒用送信機に「カラー信号発生器」などの追加と一部分の改造でこと足りる。
③しかしスタジオ関係となると話は別で、カメラも照明装置もカラー用として新しく設備しなければならない。
④地方局が中継のみでカラー放送を行う場合は、送信機の部分的改造だけでよいから簡単にできる。但しステーションブレーク装置をつくらなければならない。それくらいである。
素人の記者?にどれだけ理解されたか知らないが、丁寧に説明した。(第154回に続く)

阿川 秀雄

阿川 秀雄

1917年(大正6年)~2005年(平成17年)

昭和11年早稲田大学中退、同年3月、時事新報社入社、以後、中国新聞社、毎日新聞社等を経て通信文化新報編集局次長。昭和25年5月電波タイムス社創立。

是非、感想をお寄せください

本企画をご覧いただいた皆様からの
感想をお待ちしております!
下記メールアドレスまでお送りください。